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自認科学としての無自覚神学:主流派経済学の病理と本質的構造、病巣の解剖

  • KUYU Nekomi
  • 6 日前
  • 読了時間: 6分

主流派経済学は、数理モデルと統計を駆使し「科学」としての地位を確立しているが、その実態は再現性と反証可能性を欠いた「エセ科学」的構造にある。本稿では、経済学が歴史学や自然科学といかなる関係にあるかを整理し、それが政治的意思決定の中枢に置かれた際の危険性を論じる。結論として、主流派経済学は科学ではなく、合理性と最適化を教義とする「自分が神学であると自覚できていない自認科学」であると定義し、その影響力を相対化する。


序論:科学の衣装をまとった予言装置

主流派経済学は、人間は合理的であり、価格は情報を集約し、市場は均衡へ向かうという前提の上に構築されている。数式と統計でモデル化されたその体系は、一見すると物理学のような堅牢な「科学」に見える。政策は効率性と成長を最大化する道具として設計され、現代社会の意思決定の中枢を担っている。


しかし、その科学性は極めて脆い基盤の上に立っている。現実の人間社会において、合理的主体や安定した嗜好といった前提条件は常に変形・崩壊するものであり、物理実験のような再現性は構造的に不可能である。それにもかかわらず、経済学は「予測可能である」という体裁を保ち続け、結果として検証は「予測が当たったか」ではなく「後から説明(あとづけ)できたか」に終始している。


本稿の目的は、経済学が科学になりきれない根本的理由を解明し、それが政治と結託した際に生じる責任の蒸発構造を指摘すること、そして最終的にこの学問体系の真の姿を再定義することにある。




第1章:予測不可能性と「歴史の劣化コピー」

災害や戦争の予測が原理的に困難であるのと同様に、経済もまた、人間の判断・偶然・情報の非対称性が絡み合う複雑系であり、初期条件が確定しないため未来予測は成立しない。地震学が予知を諦め、脆弱性の特定に軸足を移したのに対し、経済学だけが「予測できる顔」をし続けてきた。ここに科学からの逸脱がある。


経済学は本来、過去のデータから構造や因果を読み解く「分析ツール」としては有用である。これは不可逆な事象を後から構造化して理解する「歴史学」のアプローチに近い。しかし、歴史学が人間の不合理さ、感情、偶然性、文脈を重視し、未来を予言しないというある種の誠実さを持つのに対し、経済学は人間を固定された関数として単純化し、未来を語ろうとする。


人間を「固定された合理的変数」として扱う経済モデルは、人間の複雑性を切り落としているという点で、歴史学の「劣化コピー」に過ぎない。意思決定の中枢に据えるならば、人間が不合理に失敗することを教える歴史学の方が、遥かに安全で有用な指針となり得る。




第2章:責任の蒸発装置としての機能

なぜ、このように不完全な体系が意思決定の中枢に居座り続けるのか。それは、現代の政治システムが抱える「不確実性への耐性のなさ」と共犯関係にある。


政治家が経済学者を「先生」と呼び、そのモデルに依存するのは、専門知への敬意からではない。それは「モデルがそう言った」「専門家の合意である」という形式をとることで、決断の責任を外部化できるからである。経済学は、不確実な未来に対する政治的・倫理的決断を、中立的な「計算結果」へと偽装する装置として機能している。


その結果、政治の場から「責任」が蒸発する。失敗しても政治家は「想定外のショック」と言い逃れ、経済学者は「前提条件が変わった」と弁明する。モデルを操縦桿として使った結果、事故が起きても誰も責任を取らない。これは知性の放棄であり、政治という機能の自殺に等しい。




第3章:心理・地政の欠落と「不確定性隠蔽合理主義」

さらに主流派経済学の決定的な欠陥は、現実の経済を突き動かす「購買心理」――欲望、恐怖、見栄、同調――のみならず、災害、戦争、天候といった制御不能な外的要因までも、モデルの整合性を乱すノイズとして排除している点にある。現実には人間は感情で動き、世界は地政学的リスクや自然の猛威に晒されているにもかかわらず、経済学は「どうすれば数式が美しく閉じるか」を優先する。


これは、人間から欲望を抜き去った「架空の合理的信徒」を、完璧に管理された温室の試験管の中で想定するような宗教的態度である。当然ながら、現実にそのような変数が遮断された管理状況は起こりえない。前提条件が現実界に存在しない以上、そこから導かれる理論に再現性が一切ないのは必然である。


この態度は、**「不確定性隠蔽合理主義」**と呼ぶべきものである。市場という欲望とカオスの集積を扱いながら、その本質を見ないふりをする。広告業界や詐欺師が人間の不合理さや現実の脆さを熟知し、それを巧みに利用しているのとは対照的に、学術の場だけが純粋な合理性の幻想の中に閉じこもっているのである。




結論:自認科学としての無自覚な神学

以上の分析から導き出される結論は、主流派経済学は科学でもなければ、単なる似非科学でもないということだ。それは構造的に「宗教」と酷似している。




**不可視の原理(市場・均衡)**を信じ、


数式という啓示を絶対視し、


**反証(予測の失敗)**が出ても、教義を修正せず「現実の歪み」として処理する。




しかし、伝統的な宗教や神学と決定的に異なるのは、自らが信仰であることを認めず、「事実」「科学」であると自認している点である。歴史学は物語であることを自覚し、神学は信仰であることを自覚している。だが、主流派経済学だけがその自覚を持たない。


したがって、我々は主流派経済学を次のように再定義すべきである。 「自分が神学であると自覚できていない自認科学(Self-identified Science as Unaware Theology)」


この病理を克服するためには、経済論争をする以前に、まずこの「名付け」を行う必要がある。「あなたは科学ではない、無自覚な神学だ」と鏡を突きつけること。それが、この学問体系を本来あるべき「分析の一手法」という棚に戻し、社会を洗脳から解くための第一歩となる。


つまり真の病巣は自分が神学であると自覚できていない自認科学のみならず、その限定的な論理整合性を、現実世界を統べる普遍の真理であるかのように誤認し、経済学を絶対の真理として祀り上げてしまった社会構造の側との2つに存在し、それらには共犯関係が存在している事にも有る。



過去宗教が政治の中枢に存在し責任逃れの装置として存在したように現代では科学の顔をした宗教がより巧妙に隠されウィルスの様に政治を侵食している。


つまり、責任ある積極財政とはこの経済学という壊れた地図に従う事が責任ある態度とされ、それを元に例え現実の道が見えていたとしても壊れた地図が藪の中で遭難する道だったとしても突っ込んで行くことが責任が有る、良い事だ、と評価されてしまう病巣そのものである。


この責任ある、とはいったい何の責任なのか、責任の主体が経済学である限り、沈没は止まらない。


責任を自らの信念で持ってこそ経済という生き物は生き返る。


以上を踏まえた上で今回は首相官邸の意見募集に対してメッセージを送りました。意味は無いかもしれませんが、続けていこうと思っています。

 
 
 

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