そう在れかしと
- KUYU Nekomi
- 7月25日
- 読了時間: 4分
更新日:5 日前
子供の自立が遅れている
そんな言葉を耳にすることが増えた。 けれど僕には、それが子供の側の問題には到底思えない。
むしろ、“そう在れかし”と押し付けてきた社会の側にこそ、原因があるのではないか?
これは単なる家庭や教育の話ではない。制度、倫理、社会が取り込んでしまった価値観の話だ。
■ "そう在れかし" が子供の成長を止める
たとえばこんな声をよく聞く。 「危ないから触らせないで」 「傷つくかもしれないから言葉を選びましょう」 「そんなことは子供にはまだ早い」
一見、優しさに見える。けれど実際は、“試行錯誤の機会”を奪う行為でしかない。
知らないことに挑戦する前に「間違うな」と言われる。 わからないままに悩むことを、「放置」とされる。
そうやって、子供は「正しいことだけをしていれば評価される」と学ぶ。
結果として、“自ら考えて行動する力”ではなく、“正しさのなかで静かに従う力”だけが育つ。
でも、それって本当に「成長」なんだろうか?
■ 引きこもりは、「正しさ」を守り続けた帰結なのだと思う
自立できない。働かない。家から出られない。そんな若者を、社会は叱咤する。
けれど僕はこう思う。
それは“失敗”なんかじゃない。
むしろ、それはかつて与えられた「正しさ」を、最後まで真面目に守り続けている姿なんじゃないか?
幼少期から「間違うな」「目立つな」「先生の言うことを聞け」と言われ続けた子が、 大人になった瞬間「自分で考えろ」「社会に出ろ」「挑戦しろ」と言われたら、どうなる?
変化を止めるように育てられた者に、いきなり変われという方が、無理がある。
そして、その矛盾に耐えきれなくなったとき、人は自己を否定し始める。
だからこそ、引きこもりやうつは、社会が作った正しさという檻の中に、真面目に適応しすぎた結果なのだ。
■ 「子供らしさ」という制度が、尊厳を壊している
子供は未熟で、無垢で、守られるべき存在。
そんなイメージは一見自然なものに思えるけれど、よく考えてみてほしい。
それは本当に、子供のための視点だろうか?
いや、それはむしろ、社会が“子供らしさ”を制度として押し付けてきた結果なんじゃないか?
つまり、子供とは「個人」ではなく、「制度上の役割」として扱われている。
「育てる」「しつける」「守る」……こうした言葉の裏には、常に上から下への視線がある。
そしてその制度が破綻するのは、ちょうど20代。
社会が突然「もう君は大人だ」と宣告する。 それまで褒められていた従順さが、今度は「自立できない未熟さ」へと転化される。
これまで正しかったものが、急に間違いになる。
それこそが、「尊厳の剥奪」ではないのか?
■ 倫理が制度化されたとき、それは暴力になる
僕が一番危険だと感じているのは、こうした構造を生み出している“倫理”のあり方だ。
そもそも倫理とは、本来「語り合い」「問い直され」「更新されていくもの」だったはずだ。
けれど、制度に組み込まれた時点で、それは「押し付けられる正しさ」へと変化する。
僕はこれを倫理暴力と呼んでいる。
この構造は、遠くキリスト教的な戒律や、西洋近代国家の道徳主義とつながっているように思える。
「原罪を背負った子供は、善くなるために教育されねばならない」
そんな発想が、僕らの社会にもいつの間にか入り込んでいる。
守るため、導くため、育てるため。すべてが“善意”の顔をしている。 けれど、その実態は変化を拒絶し、役割を固定する装置でしかない。
■ 子供と共に「変わっていける」社会へ
僕は、育てるという言葉そのものに疑問を持っている。
大人も未完成だ。 親もまた試行錯誤の中にいる。
であるならば、**「育てる」のではなく「共に育つ」**という関係性の方が、ずっと自然じゃないだろうか?
そして、子供は社会から隔離されるべきではない。 社会と共に育ち、社会と共に悩み、社会と共に変わっていく存在であるべきだ。
「引きこもり=間違い」ではなく、 「かつて与えられた正しさを守った結果」であるという見方を持つこと。
それこそが、社会が最初にやるべき“問い直し”なんじゃないか。
■ 大人たちは一体、誰のために「子供」を育てているのか?
制度、家庭、学校、メディア。 あらゆる場所で子供は“子供らしく”あることを求められてきた。
けれど、それは本当に「子供のため」だったのか?
単に大人が安心するための“従順な子供像”を再生産してきただけなんじゃないか?
そうだとすれば、問題があるのは子供ではない。
その「正しさ」を作ってきた、社会の側だ。
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