オーストラリア発の圧力と決済企業の共鳴が招く“倫理ファシズム”の解体
- KUYU Nekomi
- 3 日前
- 読了時間: 5分
表現弾圧と“倫理ファシズム”の危機に僕が思うこと
■今回の件は、どうしても黙っていられなかった。
XユーザーのAUTOMATON(オートマトン)さん: 「【ニュース】Steam含む「成人向けゲーム規制」唱える団体Collective Shout、「Steam側が無視したからクレカ会社を巻き込んだ」と声明 https://t.co/zq8lGRE7j4 https://t.co/gd8niToooY」 / X
僕は普段、社会的な論争に積極的に踏み込む方ではない。でも今回だけは、どうしても看過できなかった。
オーストラリアの団体「Collective Shout」がSteamをはじめとするゲームプラットフォームや、それに関わる決済会社(Visa、Mastercard、PayPalなど)に圧力をかけ、一部の作品が削除・規制された件だ。
この件を、単なる「一団体の抗議」として片付けてしまえば、それはとても危険な兆候を見逃すことになる。なぜなら、これは**“倫理を制度にしてしまったことの暴力”**が、はっきりと形になった瞬間だったからだ。
■倫理とは、制度にしてはならないものだと僕は思っている。
僕が長い時間をかけて辿り着いた一つの結論がある。それは
「倫理とは、語るものであり、共感するものであり、制度化した瞬間に悪性を帯びる」
ということだ。
人は誰かと価値観を交わし、違いを理解しようとしながら、「その価値観を共有できるかどうか」を慎重に測り合う。そこにこそ倫理があると、僕は思っている。
だが、Collective Shoutのような団体が持ち出す倫理は、**語られる倫理ではなく、“命令としての倫理”**だ。そしてそれに共鳴する形で、クレジットカード会社という経済インフラがその圧力に加担してしまった。
その構造はまるで、宗教が語るべき信仰を制度として他者に強要した、過去の暗い歴史と重なる。
■なぜオーストラリアなのか──道徳のガラパゴス
オーストラリアは島国だ。地理的にも心理的にも、外部の価値観と隔絶されやすい。その結果、内在的な価値観の絶対性が強化される構造になっている。そこにキリスト教原理主義が根を張れば、「自分たちの倫理が唯一正しい」という思い込みがより深く制度に食い込む。
しかも、オーストラリア発の価値観が、キリスト教的価値観と共鳴するアメリカや欧州にまで波及していくとなると、それは宗教的ミームの拡張と変質でもある。
■この事件の構造を、僕なりに整理するなら
Collective Shoutが宗教的倫理をもとに抗議を行う
決済企業がそれに“倫理的正しさ”を感じて共鳴し、販売を制限
Steamなどのプラットフォームが、決済の制限を回避するために作品を削除
結果として、共存のために存在していた境界を越えて弾圧が起きた
この流れは、誰も責任を取らないまま検閲が進む「共犯構造」によるものだと、僕は思っている。
■何が“正しい”のかを問い直す時期に来ている
表現というのは、必ず誰かにとって「不快」に映る部分がある。だからこそ僕たちは、「語る倫理」としてそれを話し合ってきたはずだ。それを制度にし、しかも外部からの経済圧力で無理やり押し付けた時点で、もはや倫理ではなく、暴力だ。
今回、僕はSteamに対してもはっきりと嫌悪感を抱いた。クリエイターの味方ではなくなったのなら、プラットフォームとしての意義は大きく揺らぐ。今後「倫理検閲に加担する限りは使わない」──そう判断するクリエイターが出てくるのは当然だ。
■僕が信じる倫理の姿
僕にとって、倫理とは「誰かと話し合うための場」だ。共感や理解が育まれるプロセスそのものが倫理であって、制度や権力に乗せて押し付けた時点で、それはもう倫理ではない。
倫理を語る自由。違いを前提に、共に居る自由。その自由を奪う制度に、僕は心からNOを突きつけたい。
■倫理の名を借りた正義の快楽が、命を奪う
彼らは「子供を守る」という名目に酔いしれ、正義の快楽という無根拠な優越感に浸っている。だが、その空虚な名目の裏側で、確かに起きているのは、今も活動を続ける数多くのクリエイターや表現者の命を、経済的・社会的に確実に抹殺していく行為である。
「子供を守る」という名のストーリーには、しばしば実体が無い。感情を操作し、仮想の加害者と被害者を作り上げ、本来語られるべき倫理を、命令と制裁の構造へとすり替えている。
一方で、クリエイターに対して行われる制裁には、職を奪い、生きる基盤を奪うという確かな暴力が存在する。そこには実在する人間の人生があり、生活があり、死に至る道がある。
■私刑に加担する者への最後通牒
このまま、彼らが「私的な優越感」と「制度によって担保された正義の快楽」のために、倫理という名の暴力に加担し続けるならば、その報いは制度の中で支払われるものではない。社会的信用そのものの崩壊という形で、彼ら自身に降りかかる。
倫理を装った検閲を繰り返すならば、社会は信用基盤の崩壊を回避するために、金融インフラと取引制度の一部機能を凍結せざるを得ない状況に至るだろう。
具体的には:
文化的製品・表現物の全品検閲
クレジットカード等の金融連携の遮断
食品・医薬品・生活必需品以外の全カテゴリ取引の一時停止
社会信用評価における「思想検閲関与者」のラベリングと排除
これが制度として実行される日が来るとき、本当に“守られるべき子供”とは誰だったのか、その問いから逃げてきた全ての人間に代償が問われるだろう。
■語る倫理を、暴力へと変えるな
倫理とは、制度によって行使するものではない。共に語り、考え、悩み、合意形成をして初めて、「倫理」は人間社会において有効なものとなる。
それを強制と制裁へと転化する時、それはもはや倫理ではなく、文化と生命を破壊する暴力である。
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