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正義と悪を解体する

  • 2024年11月16日
  • 読了時間: 2分

更新日:2025年7月3日

僕が思う正義とは社会にとって、利益と不利益を天秤にかけた時、不利益が勝る物を排除する為の勝者にとっての必要悪なのだと考えている。


例えば殺人に対しての無期懲役や死刑、これは社会に再度出した時、その人間が居る事によって社会にとってその個人が生きている事による利益が少ない、かつ社会が被る不利益が膨大である時に無期懲役や死刑が求刑される事が望ましいと思う。


もしいつでもいざとなったら人を殺す選択を安易に選ぶ人間が何処に居るのか分からない状況となれば社会的な不利益は膨大だろうから。


社会というのは必ずしも全体社会を指している訳じゃなくて、個人の中でも自立した人間であれば社会は成立するし、小規模なコミュニティであっても社会は成立する。


だから社会の在り方は人それぞれで、必要悪はコミュニティの数だけ存在している、はたから見て悪だと思える事も個人という最小のコミュニティの中で折り合いをつけて、正しい事をする。


個人の中で間違っていても行ってしまう行動はこの最小のコミュニティと個人の属するコミュニティが違うからこそ個人の中では間違っている行動を取ったという結果になるのだと思う。


逆もそう。


そして社会全体的な不利益を被らない物に対しての罰則は醜悪そのものだとも思う。


今の世界を見てみれば個人の趣向、少数の趣向に対して自ら足を踏み入れて法律を手段にして攻撃を行う。これは不必要な悪で人の理を外れた野蛮な行為だ。


今の世の中はあまりにこういう行為が相次いでいる気がする、心底醜悪な社会になっている。


倫理観が余りにも未熟過ぎる。


世の中には絶対悪も存在する。


政治的、過去の因縁、それらによる流れから生まれる死を現代の倫理で回避しようとしない行動。


これこそが絶対悪であり人類が本来回避しなくては行けない大きな渦、今の時代、対話によってすべてが本来であれば解決する。


それを自らの利益の為に死を伴う行動を取る、人が正義を語る時は全てが完全に政治的でより醜悪な物だ。


民衆を動かし、自分達がまるで正しい事をしているかのように思わせる。

 
 
 

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